豊国廟の入口・御朱印
豊国廟の鳥居をくぐると真っ直ぐ突き当たりが豊國廟の入口です。
豊国廟の入口には御朱印を頂ける社務所が左にあります。
↓御朱印やお守りなどもありました。
社務所を通り過ぎた奥に墓所の入口があります。
入口に行ってビックリー!!!
どエライ階段なんですけど・・・・トップが見えん
↓豊國廟の入口に志納金箱があるので100円を納めます。(小学生以下は無料)
階段
先の見えない猛烈な階段を目にするとギョッとするわ、唖然とするわで階段を上り始めるまで心づもりにしばし時間がかかりましたw。
気軽な気持ちで来たらこの強烈な階段を見て呆然とすること間違いないです。
↓注意書きがありました。
階段が苔むしてるから、雨が降ってたり雨上がり後などで階段が濡れてると滑りやすいので要注意。
↓ふうふう言いながら登ってきて、やっと真ん中らへんに来てもまだまだ上がある。
息をゼイゼイ切らして何度か休憩しつつやっと終わりが見えてきて、やったー!
やっと上がりきった!と思いきや、ずーっと奥の方に何かが見えるんですけど?
お墓?いや何だろう?とりあえず門のようだ。
めちゃ立派な格式高い唐門(からもん)の向こうに見えるのは・・・また階段!?
門の扉には豊臣家の家紋・桐紋(五七の桐)が入ってました。
↓唐門の裏側
門をくぐると、さらなる高みへと続く階段が!!!
ヒーーー!マジか!?
もう衝撃過ぎて、なんの罰ゲーム!?って声が出ちゃいましたw
泣く泣く階段を上がります。これは真夏に来たらヤバいやつ。春に来といて良かった。
ヒぃーヒぃーと登り切ったらやっと墓石が見えましたー!今度こそ到着♪
秀吉の廟所(墓所)について
豊臣秀吉は居城だった伏見城で1598年8月18日に享年62か63歳(満61か62歳)で亡くなっています。(生年が諸説あり、死因も諸説あって定かではない)秀吉の遺命で遺骸はこの阿弥陀ヶ峰に葬られました。当初は秀吉が亡くなった事を伏せるために密葬され、公表されたのは翌年の4月とのこと。御遺体はしばらく伏見城内に安置され、公表後に埋葬されたという説もあります。
秀吉が亡くなった翌年には、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹に30万坪と社領1万石の壮大かつ壮麗な豊国社が創建されました。
秀吉の死後は毎年、勅使や北の政所や豊臣秀頼の名代を迎えて盛大な豊国祭が行われましたが、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は秀吉の神号を廃し、豊国社の取り壊しを命じたため墓参りをする人が途絶えました。神社は取りつぶされましたが墓所は残されたそうです。
そして時を経て、1880年(明治13年)に豊国神社が方広寺大仏殿跡地に再興されました。
現在の廟は、1898年(明治31年)の秀吉忌300年の際に全国の募金により豊国会が整備したのもので、秀吉の墓を改葬するため当時山の中腹にあった墓を掘り返しました。すると墓の中に直径1メートルほどの壺があり、その中に手足を組んで座るミイラ化した遺体があったらしいのです。ところが御遺体は詳しく調査されず、山の頂上に弔い直されたということです。そして、高さ約10メートルの巨大な五輪石塔が建てられました。
現在であればエジプトのミイラなんかでも最新技術でもって物凄いことまで解析されて調査されるんでしょうけど、明治時代とあれば「きっと秀吉のご遺体であろう」程度の認識で終わってしまったのかもしれませんね。なんとも残念な。
お墓は既に盗掘されていたという記録もあるようで、明治の発掘の際には副葬品は何も見つからなかったらしいです。なにはともあれ、秀吉と思われるご遺体は今も京都の阿弥陀ヶ峰に眠っているので、とんでもない階段をヒィヒィ言いながら上って参拝した甲斐がありました。
↓お墓を横から見ても大きくて立派です。
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