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鎌倉の史跡巡り【北条政子・源実朝の墓】は鎌倉時代独特の「やぐら」墳墓

 

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北条政子のお墓

当時の鎌倉は山に囲まれて平地が少ない上に人口密集地で土地がなかったため、岩を掘って洞穴にお墓を造りました。鎌倉の岩が掘りやすい地質だったのを利用した鎌倉独自の横穴式墳墓が今も山ほど現存しているんですが、北条政子のお墓も「やぐら」です。

「北条政子」の立て札がなければどれが政子のお墓なのか分からないところでした

岩を上手に四角くくり抜き、中に供養塔が安置されています。
天井は平らな平天井だけど、壁には穴がくり抜かれていたから扉があったのか、仏像のようなものを祀る棚なのか。

 

源実朝のお墓

実朝のお墓にも立て看板があったので見つけやすかったです。

実朝の墓も天井は平天井だけど、壁には穴がくり抜かれていたので仏像のようなものを祀る棚なのかも。

 

中世のお墓「やぐら」

現代はお寺の墓地や霊園に埋葬されるのが一般的ですが、鎌倉時代は「やぐら」に埋葬されました。
古代の有力者は古墳に埋葬されたのは有名ですが、鎌倉の「やぐら」はあまり知られていない埋葬形態じゃないでしょうか。私は鎌倉観光に来て初めて知りました。

鎌倉初期の武士の遺骨は法華堂に埋葬されましたが(源頼朝の墓や2代執権・北条義時の墓も法華堂に埋葬されましたが建物は残っていません)、3代執権・北条泰時の時には鎌倉の人口が急増したため鎌倉内に墳墓堂としての法華堂を建てることを禁止した令が出されました。

鎌倉の平地に法華堂(墳墓堂)を建てることが禁止されたため、山や岩をくり抜いて法華堂を似せた洞穴墳墓「やぐら」が生まれたと考えられています。そのため「やぐら」は法華堂を模した墳墓堂であり仏殿といるので、上流階級や有力者のお墓なのです。やぐらには火葬骨が埋葬されているんですが、当時は身分が高い人でないと火葬できなかったようです。

では、平民の埋葬はどうしていたのか?身分の低い人々はやぐらには埋葬されず、由比ヶ浜の集団墓地に土葬だったようです。当時の由比ヶ浜は今よりもっと砂地が広くて砂丘のようで、由比ヶ浜周辺を発掘調査したら人骨が結構出てくるらしいです。

当時、鎌倉の平地に墓地を造ることを禁止したのは、人が住むための土地を確保するためだけはなく、平城京や平安京の都作りを真似たのではないかとも言われています。というのも、平城京や平安京の中に墓地を造ることは法令で禁止されていたんですって。

鎌倉時代にはそんなお墓事情があったため、3代目将軍だった実朝や尼将軍とも称される北条政子でも法華堂ではなく「やぐら」に埋葬されたのかもしれません。

 

2代執権・北条義時のお墓(法華堂)には三浦一族のお墓(やぐら)があったり、古代のお墓の横穴式古墳を転用してやぐら墳墓にした大江広元のお墓もあって、色んな形態の墳墓を見ることができます。大河ドラマ「鎌倉殿」にも出てくるスタメン的御家人のお墓で、私のブログにも書いてるのでよかったら見てみてください。

 

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