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鎌倉の史跡巡り【北条義時の墓】には鎌倉幕府の大御所御家人のお墓もあります

北条義時の法華堂跡地(墳墓堂)
大江広元・
毛利季光の墓
三浦氏一族・島津忠久の墓

 

鎌倉で3泊してバイクで鎌倉の史跡を巡ってきました。暑い中、2日目なんて十数カ所も回ったから夕方前にはヘトヘト。けど、行ったのが5月末でアジサイがまだ色づく前だったので観光客が少なくてスムーズに観光できた上に、今回はバイクで移動したのでマイナーな史跡までかなり巡ることができて充実した旅になりました。

この日巡った場所は、源頼朝のお墓・法華堂跡・白旗神社北条義時の墓・三浦氏やぐら(お墓)・大江広元・毛利季光・島津忠久の墓→鎌倉宮→永福寺跡→瑞泉寺→護良親王の墓→報国寺→北条高時の腹切りやぐら→日蓮上人辻説法跡→妙本寺→妙法寺

鎌倉はアップダウンがある地形だからレンタサイクルを利用する際は電動自転車がオススメです。

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で鎌倉時代が取り上げられたお陰で鎌倉市内の史跡がかなり整備されたようでした。説明書きや看板もリニューアルされてて、大河ドラマに出てくる人物の史跡には「○○ゆかりの地」と名前が書かれた旗(のぼり)が立てられました。お陰で、「ここは誰々ゆかりの場所なんだね」と意識して観光できたので、鎌倉に史跡巡りに行ってみたい方は今年中に行ってみるといいかもしれません。(観光史跡の旗は大河ドラマが終わったら撤去されそうな気がします)

さて、今日紹介する場所は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主演の小栗旬さんが演じている北条義時のお墓(墳墓堂)です。ここには北条義時のお墓だけでなく三浦一族や大江広元のお墓もあり、毛利季光や島津忠久のお墓もあります。なぜ毛利や島津のお墓まで一緒にあるのかというと、鎌倉幕府の御家人だったんですね。幕府との関係性は後ほど書きますね。

源氏や北条氏以外の御家人は一般的にはあまり知られていないと思うんですが、三浦や大江広元は大河ドラマに出てくるキーパーソンなので大河を見てると訪れてみたくなる史跡です。三浦や大江広元の名前を聞いてピンとこなくても「鎌倉殿の13人」の相関図で俳優の顔を見たら「あ!この人か」と分かるかも。

 

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「北条義時の墓」の場所

北条義時のお墓は源頼朝のお墓のすぐ近くにあります。隣の山にあるといった感じ。

鎌倉のガイドブックには「北条義時・大江広元・島津忠久の墓」と印が打ってあるだけで特に行き方や解説までされていないことが多いと思います。私のガイドブックには三浦一族のやぐら(墓)や毛利季光の墓は載っていませんでした。おそらく大河ドラマで「鎌倉殿」をしていなかったら歴史通の人しか行かないであろう場所です。

 

ブログ内に掲載しているGoogleマップは拡大・縮小できるので、指やマウスで画面を動かすと拡大・縮小できます。見たい大きさに調整してください。

 

行き方

徒歩

●JR鎌倉駅東口から徒歩20分ほど

●鶴岡八幡宮の東鳥居から歩いて10分かからない所にあります。

バス

鎌倉駅からバス(乗車5分+徒歩5分程度)

JR鎌倉駅東口バス乗り場から「鎌倉宮(大塔宮)行」、「坂上行(ハイランド循環)」、「金沢八景駅行」または「鎌倉霊園正門前太刀洗行」のバスに乗り、「岐れ道」バス停で下車。

乗ってきたバスの進行方向左手に垂直の小道を直線に徒歩5分歩くと道の突き当りに源頼朝の墓(頼朝の法華堂跡)があります。北条義時の墓は、源頼朝の墓の階段を上がらず道なりに右手に50m程歩くと左手にお墓に上がる階段があります。

北条義時のお墓の入口には看板があったからすぐ分かりました。

お墓は山の中にあるので、階段を上がっていきます。16m程の石段です。
(階段の手すりが新しかったので大河「鎌倉殿」が決まって整備した感じがプンプン)

 

「北条義時の墓」について・お墓の歴史

北条義時のお墓がある山には鎌倉幕府の御家人だった三浦一族や大江広元のお墓もあり、毛利季光や島津忠久のお墓もあります。一度に盛り沢山な場所でした。

お墓は小高い山の中にあり、階段を登ると視界が開けて広場が広がっていました。

北条義時が亡くなって、義時が祀られた法華堂(墳墓堂)がこの広場にあったとされています。
この平場は770平方メートル(約233坪)あるようです。

看板にあるQRコードをスマホに取り込むと法華堂の復元CGが見られるようになってます。

法華堂の復元CGは現地だけでなく自宅でも見られるようになってます。

AR北条義時法華堂」はAndroid版とiOS版を無償で提供していて、アプリのダウンロードの仕方や操作方法については公式チラシをご覧下さい。

 

↓法華堂の看板

北条義時は1224年6月13日に62歳で亡くなりますが、急死だったようです。
鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」には衝心脚気で死亡したと記されてますが、権力ある幕臣が急死したのでいろんな憶測があるみたいです。後妻の伊賀の方に毒殺されたんじゃないかとか(明月記)、近習の小侍に刺し殺されたのかもよ(保暦間記)とか。

悲しいことに義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶え、再建されず現在に至ります。
北条家の執権政治は義時の父・時政から始まり、最後の16代執権の守時で鎌倉幕府が滅亡し、1333年に守時は自害します。

義時が亡くなってから守時が自害するまで109年間です。
義時の法華堂は13世紀初めに建てられましたが、14世紀初めには法華堂はどないかなってしまったと推測されています(もろ関西弁的な表現ですが)。実にあっけなく寂しいものです。

実はこの場所に北条義時の法華堂があったと正式に確認されたのは近年のことで、「吾妻鏡」に「頼朝の法華堂(頼朝の墓)の東の山をもって墳墓となす」と書かれた記述を手がかりに平成17年(2005年)に発掘調査を行ってみたら本当に建物跡が埋もれてたようです。ブラボー!

遺構は現在の地表より下にあるので、保護するために調査後は埋め戻して草地として維持しているとのこと。遺構の真上には調査で見つかった(柱の位置関係から割り出した推定も含む)法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。(素材は現代の一般的な庭園用素材らしいです)

発掘調査についての看板もありました。

どうやらこの看板や遺構跡の整備も大河ドラマが決まって作ったみたいです。
設置が2022年3月ですもん。

北條寺

ちなみにですね、義時のお墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にもあるようです。
北条寺は静岡県伊豆にあるお寺で、義時の子・泰時が創建したといわれています。

 

「法華堂」とは、当時の偉人の霊廟(霊を祀る場所や建物)のことなんですね。鎌倉の北条義時の法華堂(墳墓堂)は消失してしまってますが、伊豆にはお墓が残っているようです。

 

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