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鎌倉の史跡巡り【北条義時の墓】には鎌倉幕府の大御所御家人のお墓もあります

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大江広元・毛利季光のお墓

三浦一族のお墓のすぐ横にある階段をさらに上ると、大江広元毛利季光島津忠久のお墓があります。

三人とも誰それ?って感じですが、大江広元は大河「鎌倉殿」に出てるので俳優さんを見たら「頼朝に仕えている雅なブレイン役の人か!」とピンとくるかもしれません。

さて、お墓に行く階段が2つあるんですが、鳥居がある方の階段を上がると大江広元と毛利季光のお墓があり、右の階段を上がると島津忠久のお墓です。

面倒なのが、上に上がっても柵があるから三人いっぺんに拝めないのです。

では、鳥居がある方の階段を登って大江広元と毛利季光のお墓をお参りします。

階段を上りきるとすぐにお墓があります。

左が毛利季光(もうりすえみつ)で、右が大江広元のお墓でした。
さすが大河ドラマ効果で、大江広元のお墓にはお供え物がいっぱいでした。

このお墓も大河ドラマ整備されたようで、どっちが誰のお墓なのか分かるようにされていました。

 

大江広元のお墓

 

大江広元(生年不明~1225年)は幕府の将軍・源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した人物です。鎌倉幕府の政所・初代別当を務めました。

公家出身(京都の朝廷貴族)の大江広元は、鎌倉幕府と京都の公家の交渉で活躍し、頼朝の死後も北条政子(頼朝の正妻)や2代執権・北条義時に仕えて幕府を支えました。

 

毛利季光のお墓

 

毛利季光(生年不明~1247年没)は、大江広元の四男で、長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。
毛利季光は鎌倉幕府の御家人で、朝廷と幕府が争った承久の乱(1221年)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなどして重用されました。

1247年、北条と三浦が争った宝治合戦で毛利季光は三浦氏に味方し(毛利季光の妻の実家が三浦だった)、毛利季光は戦に敗れた三浦一族とともに源頼朝の法華堂で自害したとされています。

お墓が造られたいきさつは、江戸時代後期の文政6年(1823年)に第10代長州藩主・毛利斉煕(なりひろ)が鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に大江広元の墓を造営し、その時に毛利季光の墓も整えました。そして、大正10年(1921年)に現在の場所に移設されたようです。

そういう経緯があって毛利のお墓が三浦一族や大江広元と同じ場所にあるのかと納得しました。

 

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