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鎌倉の史跡巡り【北条義時の墓】には鎌倉幕府の大御所御家人のお墓もあります

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島津忠久のお墓

大江広元と毛利季光のお墓の右横には島津忠久のお墓もあります。
でもね、柵があるから横移動出来なくて、一旦階段を下りて、また別の階段を上らないといけないのです。私は横着して身を乗り出して写真だけ撮らせてもらいました。

 

島津忠久(生年不明~1227年没)は、薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物で、鎌倉幕府内では特別な御家人だったようです。島津忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞として南九州の島津荘(しまづのしょう)の惣地頭(そうじとう)に任ぜられました。

そしてそして、島津忠久を生んだ丹後内侍(たんごのないし)は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤(落とし子)であったという説が島津家に伝わっているそうです。だから源頼朝の墓に近いこの場所に島津忠久の墓が造られたといういきさつがあります。

島津忠久の墓を造営したのは安永8年(1779年)で、江戸時代後期の大名で第8代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が整えました。島津重豪は源頼朝のお墓も整備していて、現在残っている頼朝のお墓は島津重豪が造ったものになります。

薩摩藩主のイメージが強い島津なので、なぜ鎌倉に島津のお墓があるのかと不思議だったんですが、頼朝との繋がりがあったんですね。現地に行って初めて知りました。

 

↓参考に、これは源頼朝のお墓です。薩摩藩主の島津重豪が再建しただけあって、お墓にはしっかりと島津氏の家紋が刻まれてました。

 

というわけで、いろんな歴史の繋がりがあって大江広元・毛利季光・島津忠久の3人のお墓は現在同じ場所にあるのですが、これらは江戸時代以降に島津氏や毛利氏が古墳時代後期に造られた横穴墓を転用して造営したものと分かりました。

 

大河ドラマ「鎌倉殿」に感化されて興味本位で行ってみた北条義時のお墓でしたが、知らなかった人物や歴史がわんさか埋もれててボリューム満点でした!

 

北条政子と源実朝のお墓にも行ってきたので、ぜひブログ読んでみてください。

 

 

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