源頼朝の死亡時期・原因
源頼朝は建久9年(1198年)12月27日に馬から落馬し、その落馬が原因で翌年(建久10年 1199年)1月13日に享年53歳(満51歳)で亡くなったとされています。
源頼朝は鎌倉幕府を開いた超キーマンなのに、鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」には頼朝の死因についての詳しい記録が抜けているんですよね。なので、いまだもって頼朝の死は謎に包まれているミステリーなのです。
吾妻鏡によると、頼朝は御家人・稲毛重成の亡妻の供養に建造した相模川の橋の完成祝いに出掛け、その帰りに稲村ヶ崎で落馬したと書かれています。けど、落馬してからどういう状態になって死に至ったか不明なので本当に事故死だったのか陰謀死だったのか・・・。
稲村ヶ崎は鎌倉と江ノ島の間にある岬で、この稲村ヶ崎は鎌倉時代が滅びる時にも歴史的戦場地となっています。この稲村ヶ崎にも今回行ってきたので後日ブログで紹介したいと思ってます。
白旗神社
源頼朝のお墓の麓に白旗神社があります。ここも頼朝にゆかりがある神社でした。
ブログ内に掲載しているGoogleマップは拡大・縮小できるので、指やマウスで画面を動かすと拡大・縮小できます。見たい大きさに調整してください。
神社の看板によると、この場所は頼朝の居館(幕府)の北隅だった場所で、頼朝が肌身離さず持っていた観音像を奉った持仏堂があったと書いてあります。頼朝は死後この持仏堂に葬られ、持仏堂は法華堂と改称されたようです。
↓「頼朝公法華堂跡碑」もありました。
白旗神社と頼朝のお墓を訪れて疑問がわきました。
白旗神社の場所にも、山の上にある頼朝のお墓の場所にも法華堂跡地と書いてある。はて、法華堂はどこにあったのか?
ネット情報によると、鎌倉時代に大地震があってこの辺り一帯の山が崩れ、法華堂は土砂に飲み込まれてしまったようです。だから頼朝のお墓も何度か再建されてきたのかもしれませんね。
一般的な歴史の流れを把握して鎌倉に行ったけど、いざ史跡を巡ってみると知らない歴史人物の名前が出てきたりして「?」と度々なってしまいました。でもスマホで検索するとすぐにどういう関連があるのか分かるからその場でスッキリ消化。ありがたい時代になりました。
歴史を把握してるだけで旅行先のちょっとした石碑や史跡にまで興味や見識が広がるから義務教育の時の勉強って大事だったんだなとこの歳になって痛感しました。鎌倉以降の歴史も総ざらえしていこうと意欲が生まれたモコモコ羊でした。
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