源頼朝のお墓ってどんな所?
持仏堂から法華堂(墳墓堂)と改称
鎌倉で3泊してバイクで鎌倉の史跡を巡ってきました。暑い中、2日目なんて十数カ所も回ったから夕方前にはヘトヘト。けど、行ったのが5月末でアジサイがまだ色づく前だったので観光客が少なくてスムーズに観光できた上に、今回はバイクで移動したのでマイナーな史跡までかなり巡ることができ、充実した旅になりました。
この日巡った場所は、源頼朝のお墓・法華堂跡・白旗神社→北条義時の墓・三浦氏やぐら(お墓)→大江広元・島津忠久の墓→鎌倉宮→永福寺跡→瑞泉寺→護良親王の墓→報国寺→北条高時の腹切りやぐら→日蓮上人辻説法跡→妙本寺→妙法寺
鎌倉はアップダウンがある地形だからレンタサイクルを利用する際は電動自転車がオススメです。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で鎌倉時代が取り上げられたお陰で鎌倉市内の史跡がかなり整備されたようでした。説明書きや看板もリニューアルされてて、史跡には「○○ゆかりの地」と歴史人物の名前が書かれた旗(のぼり)が立てられました。お陰で、「ここは誰々ゆかり史跡なんだね」と明確な意識を持って観光できたので、鎌倉に史跡巡りに行ってみたい方は今年中に行ってみるといいかもしれません。(観光史跡の旗は大河ドラマが終わったら撤去されそうな気がします)
「源頼朝の墓」の場所
源頼朝のお墓は鶴岡八幡宮の北東にあります。
古いガイドブックには「源頼朝の墓」と印が打ってあるだけで特に行き方や解説までされていないので、訪れる人も少なかったのかなと思います。
ブログ内に掲載しているGoogleマップは拡大・縮小できるので、指やマウスで画面を動かすと拡大・縮小できます。見たい大きさに調整してください。
行き方
徒歩
●JR鎌倉駅東口から徒歩23分
●鶴岡八幡宮の東鳥居から歩いて10分かからない所にあります。
バス
バスを利用する行き方は鎌倉観光公式ガイドをご覧下さい。
「源頼朝の墓」について・お墓の歴史
源頼朝の墓は道の突き当たりにあり、小高い山の中にあります。
↓入り口はこんな感じで、お墓は階段を上がった所にあります。
このすぐ左には白旗神社があり、この神社も頼朝にゆかりがあります。
(白旗神社についてはブログで後述しますね)
そして横に公園があって、道路脇に地元の児童が書いた説明書きがありました。
頼朝の墓についてや、頼朝のあまり知られていない3つの事という頼朝のこぼれ話が書かれてました。
頼朝の家系図も書いてあって、よく調べて書いてるなと感心しました。
そして、お墓の入口にも看板が立ってます。
この説明書きにあるように、頼朝のお墓がある場所は法華堂と呼ばれる建物あった場所で、頼朝は亡くなって法華堂に葬られました。そして、頼朝の死後は鎌倉幕府創始者の墳墓堂として厚く信仰されたようです。毎年、頼朝の命日には将軍が参詣して仏事を執り行い、多くの武将も参拝したと言われています。
鎌倉幕府の滅亡後も法華堂(墳墓堂)は存続していましたが、時代と共に衰退していき17世紀初頭までには堂社が無くなり、石造りの墓塔が建てられたようです。そのため墓石は鎌倉時代当時の物ではありません。
そして今残っている墓石は、江戸時代後期の大名で薩摩藩8代藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が整備したものになります。
では階段を上がって墓に向かいまーす。
↓この階段を上から見下ろした写真も載せておきます
階段を上りきるとすぐに頼朝のお墓があります。
お墓の周りは鬱蒼と木が茂っていて、ここが鎌倉時代ひいては武士の世を創世した頼朝のお墓とは思えないようななんとも物寂しい雰囲気の場所でした。頼朝が死去した当時は法華堂で荘厳に祭られていたのかもしれないけど。
今残っているこのお墓は江戸後期に再建されたものなのでそれほど朽ちた感じがしなかったです。
薩摩藩主の島津重豪が再建しただけあって、お墓にはしっかりと島津氏の家紋が刻まれてました。
なぜ島津氏が?と思ってウィキペディアを見てみたら、鎌倉幕府内で特別な御家人だったようです。
でもって島津忠久を生んだ丹後内侍(たんごのないし)は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤(落とし子)かもしれないという逸話もあるとか(ないとか)。なるほどね~。
ちなみに、島津忠久のお墓もすぐ近くにあるので今回行ってきました。
話を戻して、頼朝のお墓の前にも看板があってこの場所について解説が書いてあります。
この看板には、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公でもある北条義時の墓とも書かれているんですが、北条義時の墓は東隣の山にあり、白旗神社から2分ほど歩いた所に北条義時の墓の入口があります。
源頼朝のお墓のすぐ横には「希義公の土と石」という看板も立っていました。
頼朝には源 希義(みなもと の まれよし)という同母弟がいたようです。
平治元年(1159年)の平治の乱で頼朝の父と兄が死亡した後、13歳だった頼朝は伊豆に流され、3歳だった弟の希義は土佐に流されたんですね。
この兄弟はその後一度も再会することがなかったと書かれていて、看板に書かれてる地図は高知にある希義の墓所でした。
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