一幡之君袖塚
ガイドブックにも載っている、一幡(いちまん)様の袖塚です。
事前に地図で場所を把握して行くと見つけられるけど、地図見てなかったら見つけにくい!
参道を上がってきて朱色の二天門をくぐったら、すぐ右手にあります。
一幡の一画は竹の柵で囲ってあるから見つけやすいんだけども、、、ここが「一幡様の袖塚」とは表だって書いてないから分かりにくい。場所確認して来ないと広い境内をあっちこっち歩き回って探す羽目になります。
石碑を調べると書いてありました。
↓源頼家○嫡男一幡君○○ (○は読めず・・・)
↓石碑の横面
一幡は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の初孫で、頼朝は一幡が生まれた翌年に死去。その後、頼家が二代将軍となったけどカリスマ性に欠けたようで、御家人同士の争いが激しくなって一幡も勢力争いに巻き込まれてしまいます。
1203年(建仁3年)9月の「比企の乱」で比企能員が北条方に殺され、北条軍はその日のうちに比企の屋敷に攻め入ります。比企一族は一幡の館である「小御所」(こごしょ)に籠城。館に火がかけられ、一幡も含めて比企一族のほとんどが自害し、生き残っていた者たちもことごとく討伐されて比企一族は滅亡しました。そして、比企方の死者は800人余り。
『吾妻鏡』によると、9月3日、大輔房源性が小御所の焼け跡から一幡の小袖を見つけ出します。一幡が最後に着ていたのは菊花の模様の染めた小袖だったようです。そして『北条九代記』によると、燃え残ったわずかな小袖を目印として骨を拾い、高野山の奥の院に奉納するために向かったのだとか。
しかし、別の説もあるようで、『愚管抄』によれば一幡は母に抱かれて逃げ延びたが、北条義時が差し向けた刺客に捕らえられて刺し殺されたともいわれています。
なんにせよ、一幡は二代将軍 頼家の子女の中で最初の死亡者となりました。幼い命を絶たれて可哀想でなりません。そんな一幡の袖塚がこの妙本寺にあります。
蛇苦止堂(じゃくしどう)
地図の⑰番の場所に蛇苦止堂があります。(私は失念して行きそびれてしまいました)
蛇苦止堂は一幡の母・若狭局(讃岐局)にゆかりがある場所です。
(若狭局は比企義員の娘で、2代将軍の源頼家の側室。ちなみに一幡と公暁は異母兄弟。)
「比企の乱」で比企谷の屋敷が炎上する中、一幡の母は家宝を抱えて井戸に身を投げたと言われています。蛇苦止堂のすぐ近くにある井戸がその井戸とされていて、蛇苦止(じゃくし)の井と呼ばれています。この井戸の中で今も若狭局が蛇に姿を変えて家宝を守り続けているんだとか。
おわりに
1日目:浄明寺緑地公園パノラマ台
2日目:この日巡った場所は、源頼朝のお墓・法華堂跡・白旗神社→北条義時の墓・三浦氏やぐら(お墓)→大江広元・島津忠久の墓→鎌倉宮→永福寺跡→瑞泉寺→護良親王の墓→報国寺→北条高時の腹切りやぐら→日蓮上人辻説法跡→妙本寺→妙法寺
3日目:仮粧坂切通→源氏山の源頼朝像→英勝寺→寿福寺(非公開)→寿福寺トンネル→北条政子・源実朝の墓→銭洗弁財天→極楽寺坂切り通し→稲村ヶ崎→江ノ島→鎌倉高校前の踏切
鎌倉はアップダウンがある地形だからレンタサイクルを利用する際は電動自転車がオススメです。
大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されたお陰で、鎌倉市内の史跡がかなり整備されたようでした。説明書きや看板もリニューアルされてて、大河ドラマに出てくる人物の史跡には「○○ゆかりの地」と名前が書かれた旗(のぼり)が立てられました。お陰で、「ここは誰々ゆかりの場所なんだね」と意識して観光できたので、鎌倉に史跡巡りに行ってみたい方は今年中に行ってみるといいかもしれません。(観光史跡の旗は大河ドラマが終わったら撤去されそうな気がします)

妙本寺に行ってから二ヶ月越しにブログに書けました。妙本寺は比企一族が凄惨な滅亡となった場所ではありますが、今の妙本寺は緑豊かでおどろおどろしい雰囲気は全くありません。自然豊かで静かな境内だったので紅葉の時期にまた来てみたくなりました。
まだ書ききれてない鎌倉の史跡がいろいろあるから時間をみつけて更新していきたいと思います!
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